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インタビュー|ジョン・カビラさん「指先に情報が集まる時代だからこそ、実体験が心の羅針盤になる」

1958年、沖縄県出身の日本人の父と、アメリカ人の母のもと、長男として誕生したジョン・カビラさん。アメリカでのホームステイや留学経験のあるカビラさんにこれまでの人生を振り返っていただくと共に、ご自身の子育て論についてお話を伺いました。

カビラ少年の心を救った1年間のホームステイ

ホームステイ先では肌の色、
文化の違いを感じず、
自然体でいることができました

―まずは幼少期のお話からお聞かせください。

ジョン・カビラさん(以下、カビラ) 沖縄で生まれて13歳まで暮らしました。当時はシャイな子どもでしたね。でもハーフなのでどうしても目立ってしまって。クラスメイトたちは普通に接してくれましたが、アメリカ統治下という複雑な状況もあいまってか、時には街で指をさされて「アメリカ」なんて言われることもありました。

―小学4年生のときに海外ホームステイをされたそうですが、きっかけは?

カビラ 学級委員長に選ばれたのを機に、なんとなくいじめられるようになってしまって、登校拒否になりそうになりました。それを察した両親が、そこから引き離した方がいいんじゃないか、それに自分のルーツの一部でもあるアメリカをその目で見られるいい機会じゃないかということで、母の故郷であるカンザス州で1年間過ごしてみないかと提案してくれたんです。

もちろん、その話に飛びつきました。ホームステイ先は母の兄弟たちが住む人口2000人ほどの小さな街で、小学校のクラスも2つしかありませんでした。日本で柔道を習っていたので、学校で寝技を披露したら男子に大ウケで(笑)。「こいつ、やるな」と認められたようで、すぐに打ち解けたんです。肌の色や文化の違いを感じることもなく、非常に温かく迎え入れてくれましたね。小学校の先生がかなり配慮してくれていたのかなと思いますが、そういう素振りも一切なく。カンザスでの1年間は折れかけていた僕の心を救った時間と空間でした。

実力主義のアメリカン調和を重んじる日本人

―中学2年生の1学期を終えてから東京に転校。世田谷区立尾山台中学校に通って、途中でアメリカンスクールインジャパンに移られたとのこと。2つの中学を経験されて、印象の違いなどはありましたか?

カビラ まったく違いますよね。区立中学のほうは机が整然と並んでいて、起立・礼があり、学年で上下関係があるという世界。アメリカンスクールは上下意識が希薄ですし、生徒と先生の関係性もフランクです。でもだからと言って、なあなあの関係というわけではないんですよ。16、17歳くらいになると、先生の方も半分大人として扱ってくれるのですが、逆に言うと、責任と自覚が求められる世界がそこにはあるんですよね。持ち物検査もないし、スカートの長さをメジャーで測る先生もいない。ただしそれなりの責任と自覚がないと成績もとれないし、いい大学に行く時に必要な推薦文も内容が薄いものになってしまいます。

それと中学時代の思い出といえばスポーツ。区立中学ではバスケ部に入っていましたが、厳しすぎてろくに行ってなかったです。先生すみません。この場を借りてお詫びします(笑)。アメリカンスクールでは最終学年の最後のシーズンに、棒高跳びをやっていた親友に誘われて陸上チームに入りました。それで100メートルのタイムを計ってみたらわりと速かったらしく、学校を代表する400メートルリレーの第一走者に起用してもらって。そのときの学校記録を塗り替えたのがいい思い出ですね。

人種、文化を超える体験が人間的な成長をもたらす

―卒業後は国際基督教大学に進学後、1年間カルフォルニア大学バークレー校に留学されていますが、留学された理由は?

カビラ 英語力をより高めたいということと、米国籍も持っていたのでアメリカの大学生活も体験したかったんです。それまではカンザスの親戚宅のホームステイの体験しかなかったので、そこから離れて大人一歩手前のアメリカを体験したかったということですね。

―現地での暮らしはいかがでしたか?

カビラ クラスメイトたちの目的意識の高さに驚きました。弁護士になりたいとかMBAを取得したいとか、明確な目的意識を持って勉強している学生がとても多かった。3年次に留学したのですが、英語の試験を受けたら、1年生レベルからやり直してくださいと言われ、己のレベルも思い知らされました。
ちなみにアメリカの大学は卒業率が低かったりしますけど、教育システムは柔軟なので、大学間の転学も頻繁に起きていて、非常に合理的だと思いました。

―大学卒業後はCBSソニーに入社されています。そこではどのような業務をご経験されましたか?

カビラ 洋楽の制作部で渉外業務を担当していました。海外アーティストの宣伝材料を集めたり、インタビューの手筈を整えて通訳を行ったりしていました。

―印象に残っているお仕事はありますか?

カビラ アメリカのロックバンドのTOTOが、グラミー賞マルチ部門を制覇して来日した際に、私が『夜のヒットスタジオ』の出演交渉の依頼をすることになったんです。とは言っても、向こうは大スターですからなかなか許可がおりない。しかし、宣伝担当の先輩方から、「この依頼がどれくらい重要なことか分ってる?来日してるのにこの機を逃さずしていつ出演してもらうというんだ!」と言われ……。もう板挟み状態ですよ。

仕方がないので担当の方をしつこく追い回して、特別に直接TOTOのマネジメントと交渉させてもらえることになりました。国際電話をかけて説得して、そこまで言うんだったらということで、幸運なことに上手くいったんですよ。でも……その瞬間、達成感より疲労感と焦燥感に襲われてしまったんです。TOTOの出演交渉が成功した今、次はどんな無理難題が来るんだろうと。いわゆる“モーレツ社員”の時代ですからね。プレッシャーも相当強かったと思います。それで、そんな出来事がきっかけの一つにもなって、ちょっと新しい仕事にも挑戦してみたいと思い、会社を辞めて転職先を探していました。そこでタイミングと出会いに恵まれ、J−WAVEの開局と共にラジオパーソナリティとしての人生がスタートしたんです。

今の時代だからこそ実地での体験が糧になる

親としてできることは見守ること。
いちばん輝ける場所は本人にしか
見つけられないですからね

―現在インターに通う娘さんは大学の出願真っ只中だとか。ご自身のこれまでのご経験からアドバイスされたりはしますか?

カビラ 海外の大学に行くのであれば日本との交換留学プログラムがあるところを、日本の大学に行くのであれば充実した留学制度がある学校がおすすめだよ、という話はしています。人種や文化を超えるというのは非常に貴重な体験だと思うんですよね。今はスマートフォンがあって、指先に常に情報がある時代なので、少し検索しただけで僕もつい分かった気になってしまうのですが、それが一番危ないと思うんです。

―なるほど。便利な時代になったからこそ、気をつけねばならないことかもしれません。そうした点ではお子さんにはどのように育ってほしいとお考えでしょうか。

カビラ そうですね、何がリアルで何がフェイクなのか惑わされないための、心の羅針盤みたいなものの精度を高めるには実地の体験を増やす他ないと思います。いろんなところに旅をしてほしいし、いろんな人たちと会ってほしい。人間は同類項に固まる傾向がありますが、そこから飛び出さないと人間的な成長は得られないのではないかなと思っています。

ジョン・カビラさんの1問1答×10

❶ 好きな言葉は?
「Love&Peace」

❷ 嫌いな言葉は?
「Hate&Fake」

❸ ウキウキする瞬間は?
「基本的にウキウキしています」
★頭の中が常に春。危ないですね(笑)

❹ げんなりする瞬間は?
「残念なニュースに接した時」

❺ 人生でピンチを感じた時は?
「帰国後、財布を機内に忘れた時」
★拾ってくれた方がいて羽田空港に取りに行きました。感謝しきれないですね。

❻ 人生でチャンスを感じた時は?
「1988年10月3日のJ-WAVEの第一声『Goodmorning』と言った時」
★緊張で心臓が喉から飛び出そうでしたが、これで切り開くんだっていう思いでした。

❼ 朝起きて最初にすることは?
「ストレッチ」

❽ 寝る前にいつもすることは?
「目覚ましをかけること」
★朝のラジオ番組を担当しているので寝坊は絶対にできません。

❾ マイブームは?
「スロークッカーで料理」
★カレーからローストビーフまで作れる万能調理器です。料理は好きでよくします。

❿ 10年後どうしていたい?
「出させていただけるのなら、ラジオを続けさせてもらいたいですね」

プロフィール

ジョン・カビラ

ジョン・カビラ(じょん・かびら)さん

1958年、沖縄県出身。日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれる。13歳のとき沖縄の本土復帰を機に家族で東京に転居。国際基督教大学教養学部に進学後、1年年間カルフォルニア大学バークレー校へ留学。大学卒業後はCBSソニーに入社。1988年J-WAVE開局と同時にナビゲーターに転身。毎週金曜、朝6時から11時30分まで、約5時間半にわたる生放送ラジオ番組「〜JKRADIO〜TOKYOUNITED」でナビゲーターを勤める。他に、アニメのナレーター、スポーツ番組MC、情報番組MCなど、テレビ、CM、雑誌、舞台など幅広く活動中。

撮影/浜田啓子(浜田啓子写真事務所)

※2018年11月インタビュー

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