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インタビュー|桐島かれんさん「働きながら世界を旅する奔放な母が、私の原点」

1964年、作家・桐島洋子さんの長女として生まれた桐島かれんさん。家族で世界を旅し、アメリカの現地校に通った経験のある桐島さんに、お母様との思い出、そして子育てスタイルについてお話を伺いました。

どこまでも自由奔放という言葉が似合う母の存在

母の子育ては「放任主義」
普通の家庭に憧れたことも
ありました

ーまずは幼少期のお話からお聞かせください。

桐島かれんさん(以下、桐島) 生まれは神奈川県のとある海岸沿いの街でした。当時、母・洋子は、東京の「文藝春秋」で編集者として働いていましたが、その頃、女性は結婚と同時に退社するのが当たり前。

ましてや子どもを産んで働くなんてことはありえない時代でしたから、母は病気のふりをして少し離れた土地で私を産み、1週間後にはそしらぬ顔で職場復帰をしました。

内緒にしてまでも出産したのは…「働き続けたい」から。結婚や出産を理由に大好きな仕事を辞めるなんてナンセンスだと思ったそう。未婚の母として経済的に自立し続けるためにも、自分のキャリアを守ることは必須だったのでしょう。

ーお母様との一番古い思い出はなんですか?

桐島 母は私を産んだ1年後に妹を出産すると、妹を預けて私を連れ、1年間放浪の旅に出ました。ロサンゼルスに着いてから、5日間バスに乗り、ノンストップで東海岸を目指しました。

当時、私は3歳でしたが、一度も泣き言は言わなかったと聞いています。それが、私の初めての旅行でした。

ー小学校は公立に通われたとのこと。当時を振り返っていかがですか。

桐島 ハーフでしたし、母は有名人で何かと目立っていましたから、地味でいたい、という気持ちは強かったです。それに仕事一筋の母、そして父親のいない家庭で育ちましたから、普通の家庭に憧れました。

母は放任主義で「勉強をしなさい」ということもなければ、運動会など学校の行事にも顔を出したことはありません。習い事もせず「塾に行きたい」と恐る恐る聞いても「学校の勉強で十分」とピシャリ。その代わり、週末は家族で本屋に行き、立ち読みをした後は好きな本を買ってくれました。読書好きになったのは母のおかげです。

私と妹、弟は旅をしながら育てられた

「旅をしながら育てられた」と
言っても過言ではありません

ー小学校6年生で、再びアメリカに行っていらっしゃいますが、きっかけは?

桐島 もちろん母の意向です。あまりに多忙になっていた母は、自分のための充電と子どもに向き合う時間がほしいからと、40歳を機に仕事を一区切りさせて、私、妹、弟を連れ渡米しました。

母はギリギリまでホテルに缶詰めで執筆をしていましたから集合は羽田空港。長女の私がしっかりしなくちゃ、とスーツケースを引きずって向かいました。

ー現地ではどちらの学校に通われたのでしょうか?

桐島 学校は現地校でした。外国人がほとんどいなくて、入学当日、英語のまったく話せない私たちがやってくると、学校はパニック!もちろん母も付き添ってはいません。

そこで学校側から母に「通訳をつけてはどうか」と打診の電話があったそうですが、母は「言葉は湯水のように浴びて初めて身に付くのよ」と、これも一蹴したんだそう。

そのおかげで、2年弱ですっかり英語を習得できました。学校では、東洋人だということでからかわれたり、いじめられたりしました。人種のヒエラルキーがあることを肌で感じるいい経験をしましたね。アジア人はその頃から、数学が得意で真面目な「ナード(オタク)」というように分類されていましたよ(笑)。

ー再び帰国されてからは、どのような生活を送っていらっしゃったのでしょう?

桐島 子どもたちの英語をブラッシュアップさせたいという母の思いで、中高はインターナショナルスクールに通いました。それまでの環境とはガラリと変わって、私のような子がたくさんいたから、ここではホッとしましたね。「あ、私なんて全然珍しい存在じゃないんだ」と思えました。

大学以降も、変わらず母は放任主義。それ以前を振り返っても、忙しい母と会話するタイミングは少なかったのですが、必ず家族が集まれる機会があって。それが、幼少の頃から母が連れて行ってくれる、毎年一、二度の海外旅行でした。

「旅をしながら育てられた」と言っても過言ではないほど、母と私たちの関係に旅の存在はつきもの。夏休みには家族それぞれにエアチケットを取る人、宿を手配する人、と役割を与えていろいろな国を訪れました。

そんな家族旅行の締めくくりは、弟が高校卒業時に行った12カ国を巡る世界一周旅行。「家族解散旅行(という名前を母はつけいていました笑)」。

それまで、いわゆる民泊がメインの貧乏旅行ばかりだったのですが、この時だけはちょっと豪華な旅だったんです。いいホテルに泊まり、弟が進学する大学のあるニューヨークで現地解散。あの旅で印象的だったのが、母の「これが大人の贅沢よ」という一言でした。また来たかったら自分で頑張って稼いで行ってみなさい、と。自分の足で歩いてきた母らしい、子どもへのメッセージだったと思います。

子どもには期待しない。だって必ず育っていくから

4人の子どもたち
どんな人間になっても
「こう育ったか」と受け入れたい

ー3女1男を育てていらっしゃる桐島さんですが、どのような子育ての方針をお持ちでしたか?

桐島 母が反面教師となったのか、私は結婚と同時に仕事を休み、どっぷり子育ての世界に入りました。

3年おきに4人の子を産んだので、妊娠ないし授乳をしている期間だけでもトータルで12年間。子どもが小さいうちは大変でしたが、とにかく可愛くて。本などの情報よりも本能に任せ、授乳は3歳まで、小さい頃はできるだけ抱っこをして泣かせないように育てました。

でも子どもって、幼稚園くらいになるともう立派な人間になっちゃうじゃないですか。そうすると教育をしないといけないから、困っちゃって。だって、私が野生児みたいに育てられましたからね(笑)。自分が「勉強しろ」と言われて育ったわけではないから、私も子どもにそうは言えませんね。

なので、なんとなく気にかけてあげて、何かあれば助けてあげる、といった距離感を保っています。進学も就職も、子どもたちの意思が第一。
そう思うと、私も母のような放任主義なのでしょうね。ニューヨークの大学に行っている娘となんてなかなか連絡を取らないものですから、彼女がインスタグラムを更新するのをみて「あ、生きてるのね。それならいいわ」と思うくらいです(笑)。

ー最後に読者の方にメッセージをいただけますか?

桐島 私も日本とアメリカを行き来し、文化の違いや言葉の問題で苦労しましたが、英語を習得できたことはこの上ない財産だと思っています。

ただ、大学時代に日本語も英語も中途半端だということにコンプレックスを抱きました。その際、片っ端から日本の古典文学を読み漁ったことが、その後生きました。完璧なバイリンガルになるのは難しいので、日本語でも英語でも、第一言語となる言葉に重きを置くようにするといいと思います。

言葉というのは所詮ツールです。言葉の背景にある文化を知ることにこそ意味があると思うのです。私は海外での生活や旅を通して、世界のさまざまな文化に深い関心を持つようになりました。それが発展し、今では、世界の民芸や雑貨を扱う店を開いているんですよ。不思議なものですね。

桐島かれんさんの1問1答×10

❶ 好きな言葉は?
「C’est la vie.(セ・ラヴィ)」
★「人生って、こんなもんさ」という、フランス人がしばしば口にする言葉です。

❷ 嫌いな言葉は?
「癒し」
★最近の人は癒しを求めすぎ?

❸ どんなときにウキウキする?
「旅をしている時」
★映画でもなんでも、先が読めないのが好き。

❹ どんなときにゲンナリする?
「人種差別などのニュースを見た時」
★偏見のある世界を見ると気持ちが落ち込みます。

❺ 人生でピンチを感じた時は?
「日々ピンチです」
★毎日いろんなピンチの繰り返し!

❻ 人生でチャンスを感じた時は?
「日々チャンスです」
★捉え方次第でピンチにもチャンスにもなる。

❼ 朝起きて最初にすることは?
「紅茶を1杯飲む」
★お弁当作りの前に必ず飲みます。

❽ 寝る前にいつもすることは?
「アメリカのトークショー動画を見る」
★あちらのお笑い番組は毒舌が効いていて面白い!

❾ マイブームは?
「トランプ大統領」
★早く辞任をしてもらいたく、毎日海外のニュースで動向をチェックしています。

❿ 10年後どうしていたい?
「考えられないけれど…」
★Life is like riding a bicycle. To keep yourbalance you must keep moving.というアインシュタインの言葉があります。人生、倒れないようにするには、走り続けるだけです。

プロフィール

桐島かれん

桐島かれん(きりしまかれん)さん

1964年、作家・桐島洋子の長女として神奈川県に生まれる。「上智大学」在学中にモデルをはじめ、その後も歌手や女優としてマルチに活動する。現在は「ハウスオブロータス」クリエイティブディレクターとして、自身が立ち上げたブランドも手がける。1993年に写真家の上田義彦氏と結婚し、4人の子を育てる。

撮影/浜田啓子(浜田啓子写真事務所)

※2018年5月インタビュー

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